【日記】長編古典講師ミュルミドネスの雑感

古典の話とがも含めて何でも

長い作品ほど読解力がむしろ求められない

実のところ、私が割と安心して投稿できるのは、長編古典は、視聴者にそれほど読解力を求めずに済むからである。

 

というのも、短編集かそれに近い形では無い限り、表現方法は変わっても似たようなことが繰り返されるからである。文豪というのは、1回、2回説明したって、読者に伝わらないことはわかっているから、大事なことは何度も繰り返すのだ。しかも、繰り返しだとと気付かれないように、色々と表現を変えて。

 

だから、私はほとんど苦労することなく、「繰り返されているのは何かな?」と思いながら読んでいる。格好良く言えば幹の部分と枝葉末節を見極めながら、読んでいるといえる。実際の木でも、幹の部分は太くて、枝葉の部分は細いように、私は、細かい所はあんまり見ないで、太い所を探して読んでいるだけである。

 

読み飛ばしたとしても、心得のある作者ならば必ず繰り返してくれるので心配していない。

 

こういう読解が、多くの人にとって、簡単なのか、難しいのかはわからない。しかしまあ、数百、数千ページの作品を読んで頂くための工夫は施されていることだけは、確かである。